門池地区
概要
【全体マップ】
【アクセス】
JR「沼津」駅より富士急シティバス(約15分)、東名沼津ICから車で2分に位置する「門池公園」周辺は多数の主要幹線の結節点として交通利便性に大変恵まれている。
【特性】
門池の学区は自治体で分けずに、市の区画整理事業に基づいて、道路で分けました。
門池公園中心に16自治会5,677世帯で構成されている。現在、岡宮区画整理事業の進展があり多くの転入が続いている。
人口は増加傾向にあり、子どもは2037年まで増え続ける予測です。高齢化率は沼津全体30.7%・門池地区25.4%ですが、高い低いまだら模様です。
(2019年4月1日現在)
ウォーキングコース
~ 地域遺産を巡る東コースの紹介 ~
門池・鎌倉時代より上津池の名で存在していました。黄瀬川を堰き上げ牧堰用水路(1602年(慶長7年)築造)を補助するために、1645年(正保2年)、灌漑用のため池として竣成したものである。1852年(安政5年)には洪水で池が埋没し、浚渫時に安政島がつくられた。
門池の桜・門池沿いの桜並木と富士山とのコラボが美しいスポット。歩道にかかっている桜のトンネルは来園者に人気のウォーキングコースです。
震災追弔の碑・安政元年(1854)の安政大地震で、沼津地域は大きな被害に遭いました。当時の下小林村(南小林付近)では地面が大きく陥没し民家は埋まり、川の水が流れ込むなど死者が出るほどの被害があったと伝えられます。この大地震から50年後の明治36年(1903)、現在の消防第22分団の南向かいに「震災追弔の碑」が建てられました
鮎壺の滝・三島溶岩の断面を観察できます。溶岩流の下の柔らかい愛鷹ローム層が先に侵食され、残された固い溶岩流が滝を造り、溶岩流の底面には、複数の溶岩樹型がみられる。
白隠筆の由来書、白隠の語録「荊叢毒蘂」に、その雄大さを漢詩にして掲載されている。
「千斛雪同時撒 数萬箇雷特地鳴」
牧堰(まきせぎ)・戦前、沼津の代表的な稲作地帯として栄えた大岡地区も、かつては「中石田」等の地名が物語るように、土地は荒れ、日照りの害に苦しむ土地でした。
関ヶ原の合戦の後、慶長6年(1601年)、沼津藩三枚橋城主・大久保忠佐(兄は小田原城主:大久保忠世、弟は天下のご意見番:大久保彦左衛門)の許しを得て、関九左衛門の指導のもと、小林村など8カ村の農民が力を合わせて堰を造りました。その後、15カ村の農民が堰造りにかかわり、大岡地区をはじめ東間門までの田が潤されるようになりました。しかし、水が少ないときは下流の村々に水が行かなくなり、水争いもしばしば起こったようです。牧堰は、鮎壺の滝の300m上流において黄瀬川の水を分水する堰で、市内北小林地内で取り入れ、ほぼ狩野川、黄瀬川、岡宮東間門を結ぶ線、愛鷹山麓で囲む地域の水田の灌漑用水を供給し、いわば沼津を養い育てた母親であるといえよう。
牧堰用水路取水口から420mのトンネル導水路を経て用水が門池放出口から門池へ放出されている。
~ 地域遺産を巡る西コースの紹介 ~
光長寺・静岡県沼津市にある法華宗本門流の大本山。塔頭が五坊ある(南之坊、西之坊、辻之坊、東之坊、山本坊)。「当山は宗祖日蓮大聖人を御開山、日春・日法両聖人を開基同時二祖と仰ぐ本門八品の『道場神守護事』、法華宗四大本山の一つです。 七百余年の昔、御弟子の訓育に努めておられた宗祖は、かって道中の草庵を結ばれ、熱心な信者もいる岡宮の地に再度の弘教を志され、御弟子日法聖人にこれを託されました。 師の命を承けて法華経を説く日法聖人の法門を弔問した当地の古刹の僧空存は、自らの誤りを悟り日法聖人に帰信し、聖人の御手引きで宗祖の御弟子に加えられ、名を日春と賜りました。 日春日法両聖人は力を合せ里人を教化し、建治二年(1276)光長寺を開創、宗祖の命に応えました。
室町時代には学頭日朝聖人が出られ、京都本能寺の日隆聖人と呼応して宗祖の正義を宣揚され、現在の法華宗の礎を築かれました。その後今川氏徳川氏等も寺領を安堵、教勢は年を逐って充実伸張しました。 幾多の変遷がありましたが、宗祖直受の法燈連綿七百年、末寺約百を擁し、老杉古松鬱蒼と茂る二万余坪の境内は聖地の趣き深く、全国法華宗徒渇仰の霊場となっております。」
岡宮浅間神社の大楠・JR沼津駅の北2.7km、昔の根方街道に面して、浅間神社が鎮座している。 現在、東海道新幹線が南北に境内を二分していて、高架から見下ろされる形になってしまった。威厳も多少薄れてしまった感があるが、かつて、ここは富士山登拝路の要地であった。 いくつかある登拝路の一つに、現小山町須走(すばしり)からのルートがある。南から須走に向かう者は、必ずここに立ち寄り、北(正しくは北北西)に位置する富士山を拝んでから、須走に向かったという。 市街地にあって、いまはむしろ、静かな佇まいが嬉しい(ときどき新幹線が通るけれども)。 境内の北半分、中央に1本の大クスノキが立っている。 案内板には「樹齢は千数百年」とある。 樹肌は若々しく、案内板設置時点での枝張りは、東西33m、南北25mもあった。この近辺では、函南町の天地神社のクスと双璧をなす大クスノキであろう。 境内全てを覆うかのような勢いを持つ、1本で森のようなクスノキが、新幹線のすぐ横、それも市街地に存在する。
門池地区の歴史
門池の浚渫記録(江戸時代)
江戸時代の沼津は藩、町、村という区分で地域を分けていました。牧堰用水や門池を利用する町・村は15あり「牧堰15カ村」として門池を守っていました。(上小林村、下小林村、上石田村、中石田村、下石田村、木瀬川村、岡一色村、岡宮村、東熊堂村、高田村、日吉村、東間門村、三枚橋町、沼津本町、上ヶ土町)
江戸時代に門池の拡張を行ったり災害や台風などで門池が埋まった時には集まって浚渫を行いました。
1738年 門池拡張(長さ370.87m、幅78.14m)、1745年 拡張(361.78m、 81.81m)、1777年(607.21m、441.77m)1854年11月安政地震で大被害⇒翌年の田植え期までに修復。
1859年 大水で門池が埋まる⇒浚渫を行う。(安政島が出来る)
1923年9月 関東大震災で黄瀬川が枯れる.
1924年~1928年 6・7・8月の田植え期に雨が降らない。お米が出来ない緊急事態が発生!
この頃の門池は土砂が堆積し葦が覆い明治32年~43年にかけて宮内省の御猟場に指定されていて貯水池としての機能はありませんでした。
門池の起源
鎌倉時代、お経を写し筒に入れ塚とする風習があった。
静岡県史編纂室に調査依頼。
銅板製のお経を入れた筒6口とそれを囲む様に40余りの陶製外容器を発掘。
建久七年(1196)の年号や人物名、他には「上津池」の文字が印刻された筒が発見。鎌倉時代に上津池(門池)が存在していた事を示す一級資料の発見となる。(現在、上野の国立博物館に収蔵)
大浚渫事業
工業が発達する前の沼津は土地柄水稲耕作を主とする生活が行われていました。
牧堰用水と合わせて門池は灌漑用水池として沼津の東部に水を送る重要な役割りを果たしていました。
- 「門池の浚渫」
- 「愛鷹山の土砂流入を防ぐために水路変更」
- 「牧堰用水路から地下導水路を設け門池に水を引く」
- 「新たな排水塔の設置」
※重機や現在の様な技術が無い時代、全て手作業の大浚渫事業は大成功
「牧堰用水・門池の水の流れ」
牧堰用水屈曲点
門池導水路取水口
門池放水部
導水路内部
門池の役割
- 戦争・敗戦を経て地主制が廃止・・・平和
- 品種改良や機械化が進む・・・農家への負担は軽減
- 貿易の自由化や土地の高騰・・・農地離れ
- 田んぼ・・・宅地化
- お米づくりをする農家・・・なくなる
2007年11月 門池の地でユニバーサル技能五輪国際大会が行われる
2014年2月 門池公園内に地区センター開館
2014年7月 門池総合公園整備が完了
2018年4月 沼津市民間支援まちづくりファンド事業に参画。
同年行われた沼津市の公園利用調査・・・「門池は沼津の中で2番目に人気が高い公園」との報告を受けました。
かつては沼津の水稲耕作灌漑用水池として重要な役割を担っていましたが、現在では市民の憩いの場所にその役割を変えました。
門池地区センター
市民が市民自治のまちづくりを進めるための活動拠点として、平成24年度~25年度の継続事業として、公園管理室と合築で建設され、平成26年2月1日に供用開始されました。
鉄筋コンクリート造2階建。延床面積1,156.85㎡、そのうち地区センター1,072.85㎡
【住 所】 沼津市岡一色788-7
【電 話】 055-929-0770 FAX 055-929-0773
【利用時間】 9:00~21:00
【休 館 日】 月曜日、国民の祝日に関する法律に規定する休日の翌日、年末年始(12/29~翌年1/3)
【駐 車 場】 20台