門池の歴史
山を切り崩すと縞模様の地層が姿を現し遠い昔の大地の歴史が解ります。
私達周囲の地層は愛鷹ローム層に分類されます。愛鷹ローム層は、黒っぽい地層と明るい褐色の地層、その下には灰色の地層があります。灰色の地層は粘土質のロームが水中にあった事を示し、豊富に水があった事が解ります。
愛鷹山には伏流水が多数存在し、かつての門池は伏流水から河川に変わった渡戸川・芹沢川の水が流れ込んでいました。自然河川の水は台風や大雨が降るとたちまち土砂も運び、門池を埋めていました。
門池は何時頃からあったのでしょうか?
鎌倉時代、お経を写して筒に入れ、塚とする風習が流行りました。門池の北東にも経塚があり、県の史編纂室で調べたところ、経筒から鎌倉時代の年号と上津池(かんどいけ→かどいけ)の陰刻が見つかり、鎌倉時代に門池の存在を示す1級資料として国立博物館に貯蔵されています。
時代は明治・大正と流れ、大正12年9月1日に起きた関東大震災の影響で黄瀬川の流れが止まり、同時に田植え期の6月~8月にかけて雨が降らない旱魃が数年続きました。工業が発達していない当時、お米づくりで生計を立てていましたのでお米が出来ないのは死活問題。関係者は県に何度も訴え、大浚渫事業が行われ、現在の門池の形になりました。
昭和時代の初期は国中が戦争に巻き込まれ、やがて敗戦というかたちで平和を迎える事になります。東名高速が開通し、学校が建ち、何時しかお米づくりの農業中心の生活が工業中心の生活に変わって行きました。機械化により農家の負担は減ったものの貿易の自由化や土地の高騰から農地離れは加速、気づけば沢山あった田畑は宅地に変わっていました。
2007年11月に門池の地で技能五輪国際大会が行われ、お米づくりの灌漑用水池として沼津市を潤していた門池は人々に愛される公園として役目を変えて行きました。
2018年には沼津市民間支援まちづくりファンド事業に参画し門池の地で沢山のイベントが行われる様になりました。同年行われた沼津市市民意識調査、公園利用者アンケートから「沼津市内で2番目に人気に高い公園である」との報告を受けました。
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